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第818回例会  平成18年12月14日(木)
 nitanda  - 06/12/12(火) 20:04 -

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   第818回例会  平成18年12月14日(木)
◎本日の例会プログラム 総会 年次総会及びロータリー情報委員会卓話
○次回例会プログラム 忘年例会 3クラブ合同忘年例会

前回(817回例会)の記録 平成18年12月7日(木)
■ビジター
 宿利公夫君(中津中央)
■出席報告
 会 員 数 28名
 免除者数 1名
 対象者数 27名
 本日出席者 19名
 欠席者数 8名
 出 席 率    70.37%
■前々回出席報告の修正
 前々回欠席者  4名
 メイクアップ  1名
 欠 席 者  3名
 修正出席率 85.19%→ 88.89%

●メイクアップ
 梶原(中津)
●欠席者
 渡辺、白石、小野(裕)

ロータリーソング
君が代、奉仕の理想

会長の時間
会長 松本 幹夫
 早いもので今年もあと1ケ月となりました。色々な所でクリスマスの飾り物を目にします。さて今月はロータリー家族月間です。当クラブでは特別にプログラムは用意しておりませんが、皆様はどうか、クリスマスイブの日、ご家族で家庭サービスをしてロータリーの家族月間を意義あるものにしていただきたいと思っております。特別にクリスマスに限らずともよいのではないかと思いますが、今月がロータリーの家族月間という事を少しでも思っていただければと思います。既婚者500人を対象に「こうしてくれれば相手を見直すことができるのに」という、夫あるいは妻へ望む「振る舞い」のアンケート調査の結果、「自分がした事に感謝の言葉をかけてくれる」が妻の望む1位で夫が望む2位、「いつも機嫌よく笑っていてくれる」が夫の望む1位で妻の望む5位、に挙げられた他、「興味のない話題でも積極的に会話に付き合ってくれる」「悩みでもなんでも話してくれる」も男女共に上位に入っています。会員の皆様はすでに暖かい家庭生活を送っておられる事と思いますが、より一層思いやりの暖かい心で家庭生活を送っていただきたいと思います。

幹事報告
幹事 青木 秀暢
●例会変更 佐伯RC、竹田RC、宇佐RC、豊前RC12/21
●週報受理 佐伯RC
●会報受理 ザ・ロータリ アン誌
●幹事報告 なし
●理事会報告 なし

委員会報告
親睦委員会 田原委員長
・中津市内3クラブ合同忘年例会
 12/21(木)18:30〜中津オリエンタルホテルにて。会費の4,400円を引き落とします。

・新春例会
 1/11(木)18:30〜嘉乃にて行います。

ニコニコボックス
担当:米山奨学会委員会
○梶原会員
 後で卓話をします。よろしく。
○小野(裕)会員
 男4名で仕事をしていましたが、美人パートナーが1人入りました。
○梶屋会員
 卓話をします。よろしく。
○矢頭会員
 小野さん近々来店します。1週間以内にホールインワンをしようと思いましたが出来ませんでした。
○熊谷会員
 中津RCに行きました。ニコニコが少ないとこぼしていました。それと62歳になりました。年金をもらう歳になりました。
○向笠会員
 ペースメーカーを入れて5年たちました。健康です。主治医は小路会員です。
○小路会員
 向笠先生の主治医になり、かれこれ14〜15年になります。ペースメーカーを入れると10年は生きられますよと奨めました。
○白石会員
 最後にニコニコします。おつりを貰ってよいですか?

会員卓話
梶原清二会員
「マッカーサー日本着(1945)」
 昭和天皇の玉音放送が流れて全国民に敗戦が知らされてから15日後、1945年8月30日の14:05。パイプをくわえた粋な姿の連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥が「バターン号」から厚木飛行場に降り立ちました。これから朝鮮戦争における発言の責任を問われて解任される1951年4月11日まで2050日間、日本はこの類い希な理想家の支配下に置かれました。

 マッカーサー元帥は随分「名言」を遺した人です。太平洋戦争中の1942年3月11日フィリピンで日本軍の攻撃を受けやむなく退却した時は「I shall return.」と言いました。willではなくshallと
言った所が彼の軍人らしい強い意思を表しています。そしてその言葉は昭和19年実現されレイテ島で日本軍を壊滅させ、「フィリピン国民諸君。私は戻ってきた」と言って、政権をセルギオ・オスメニア大統領に引き継ぎます。

 そして日本降伏。430隻もの大艦隊を27日には沿岸に並べ、28日先遣隊146名が厚木到着、そしてこの日元帥自身が堂々とした姿で到着します。この間に日本がやったことはどうもなっていません。終戦後すぐの17日に発足した東久邇宮内閣は「一億総懺悔」などと発言して顰蹙を買います。8月23日の朝日新聞は「婦女子は外国軍人に隙を見せないよう」などと報じ、27日には内務省が占領軍用の『慰安施設』を設立して、慰安婦を募集しました。が、これも批判を浴びてすぐに閉鎖されます。

 さてマッカーサーは9月2日に東京湾に浮かぶミズーリ号の上で日本の無条件降伏に対する調印式。そして「東京には進駐しないで欲しい」という日本政府の声をあっさり無視して9月8日8000人の将兵を引きつけて威風堂々と東京に入り皇居をしっかり見下ろすことのできる日比谷の第一生命ビル(現DNタワー21)の6階正社長室に執務室を置いてGHQの指揮を取りました。

 9月27日には天皇がマッカーサーを訪問。この時背が低くピチっとした正装の天皇と背が高く開襟シャツでくつろいだ姿のマッカーサーが並んだ写真は全国に新聞を通して出回ると、日本人に改めてこの戦争に負けたのだ、という意識をはっきりと植え付けました。

 アメリカが最も恐れていたのはこの敗戦を契機に日本に共産主義革命が起きることでした。当時日本の敗戦が確実となってきた段階でアメリカにとって最大の敵はソビエトだったのです。そこで日本降伏のすぐあと8月16日にはトルーマン大統領が「日本は分割統治しない」と言明、マッカーサーも天皇と会ってこの人物は利用できると判断すると敢えて天皇の戦争責任は問わずにその天皇を中核にして日本をアメリカにとって都合のよい国に変身させる政策を取り始めます。そのためには日本国民に今まで敵国として憎んでいたアメリカを魅力ある国と思わせる施策が必要でした。そこで最初にとったのがアメリカの豊かな物資を食う物も食えず着る物も切れずにいた日本人の前に見せつけることでした。

 占領軍(日本ではこの言葉を嫌って進駐軍と言い張った)のジープは子供達にチョコレートをどんどん配ります。Come on! children, chocolates for you!「ギブミー・チョコレート!」
そのほかにもチーズ・バター・ビスケット・タバコ・チューインガム、アメリカ兵たちはどんどん物資を日本各地で配ります。アメリカ兵や家族向けの施設のショウウィンドウにも色鮮やかな食品・衣料品・日用雑貨が高く積まれ、通り行く日本人たちの目を奪いました。

 一方、GHQは日本の非軍事化と民主化を強力に推進します。教科書の黒塗り、政治犯の釈放指示、治安維持法の廃止、軍国主義者の教職員追放、戦争映画の禁止、航空機開発・原子物理学・テレビ技術・暗号技術の研究の禁止、陸軍省・海軍省の廃止、修身及び日本史の授業停止、そして財閥解体、農地改革、そして年が明けて1946年になると天皇自らが全国を行脚して国民を力づけます。その姿を見た国民は、国民こそが国の主役なのであるという民主主義というものの意識に目覚めます。それは戦時中強制された「国のため」という名のもとにさんざん虐げられて来た人々にとって新しい価値観を創造するものでした。

 1946年3月6日新憲法の草案発表。マッカーサーは最初新しい憲法を作るよう日本政府に指示しましたが、政府が持ってきた案はあまりにも話にならない代物でした。そのためマッカーサー自身がその骨格を書く羽目になります。この憲法にはマッカーサーの理想が多く含まれていました。軍隊を持たない平和国家。象徴としての天皇。全ての国民が平等であること。言論の自由。男女差別の撤廃。労働者の権利の保護。GHQ内部にさえも日本から軍隊を無くしたら日本は敵にもならないかも知れないがアメリカの味方にもならないのではないかと強い異論がありましたがマッカーサーは押し切りました。

 4月10日女性も参政権が認められた新選挙法による総選挙。39名の女性議員が誕生。この新国会で憲法案は審議され10月7日可決。11月3日発布。翌年4月から新しい六三制学校制度。5月3日新憲法施行。民主化はどんどん進んでいきました。国民も復興に燃えていました。

 しかしやがて暗雲が立ちこめ始めます。1948年朝鮮半島に大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国という2つの国家ができてしまいました。そして1949年10月1日には北京(ペイチン)の天安門(チエンアンメン)広場で毛沢東(マオツォートン)は中華人民共和国の成立を宣言。マッカーサーは理想を曲げて日本に再軍備をさせる必要性を感じ始めました。翌1950年1月1日「日本国憲法は自衛権は否定していない」と年頭の声明で述べます。

 そしてとうとう6月5日朝鮮戦争勃発。マッカーサー元帥は国会を通さない超法規的な命令であるポツダム政令により警察予備隊を設置させ、カービン銃で武装した紛れもない軍隊を誕生させました。マッカーサーは奇襲攻撃により9月15日北朝鮮から首都ソウルを奪回、これに対して北朝鮮は中国軍ソ連軍の支援を受けて対抗、10月25日再びソウルを奪います。これに対してアメリカも大量に戦力を投入して翌年3月14日、再度ソウルを取り戻しました。この間日本はこの戦争にともなう特需で沸き復興に拍車が掛かります。そして20日マッカーサーは「中国本土攻撃も辞さない」と威嚇。しかしこれがトルーマン大統領の逆鱗に触れました。

 何とか早めに戦争を収拾したかったトルーマンは「勝手にそんなことを言うのは大統領の権限への挑戦である!」と怒り、マッカーサーを解任します。4月11日。アメリカ軍にとってもマッカーサーにとっても、そして日本国民にとっても突然のできごとでした。16日マッカーサーは大勢の日本国民に暖かく見送られて日本を去ります。この様子はテレビが全国に実況中継し、国会もマッカーサーへの感謝の決議を行いました。

 帰国後マッカーサーはアメリカ国会で演説。最後にこう述べました。
「老兵は死なず。ただ消えゆくのみ」

『ダグラス・マッカーサー』
 Douglas MacArthur 1880.1.26 アーカーソン州リトルロック生まれ。第一次世界大戦・第二次世界大戦・朝鮮戦争に従軍。極東軍総司令官、GHQ最高司令官。1964年死去。

「世界の指導者の言葉」
アインシュタイン博士の言葉
 近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。一系の天皇を戴いていることが、今日の日本をあらしめたのである。私はこのような尊い国が世界に1ヶ所ぐらいはなくてはならないと考えていた。世界の未来は進むだけ進み、その間幾度か争いが繰り返されて、最後に闘争につかれる時が来るだろう。その時人類は必ず真の平和を求めて、世界の盟主をあげなければならぬときが来るに違いない。その世界の盟主は武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を超越した最も古く、かつ尊い家柄でなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。それはアジアの高峰・日本に立ち戻らねばならない。我等は神に感謝する。天が我等人類に日本という尊い国を造っておいてくれたことを。
(1923年11月28日来日時の言葉)

昭和天皇とマッカーサー会見の時
〜日本を動かした一枚の写真〜
昭和天皇とマッカーサーの歴史的会見
 9月27日午前9時50分、昭和天皇を乗せた車が、アメリカ大使館公邸に向かって、皇居を出発した。シルクハット、モーニングで正装した昭和天皇の表情は、同行した通訳は「非常に厳しいお顔だった」と回想している。

 作家の工藤さんは「まず側近は、生きて帰れるかどうか心配したんですね。陛下は、決死の覚悟で乗り込んだわけです。日本の運命と自分自身、皇族の運命がかかっていましたからね」。

 午前10時、車は、マッカーサーの待つアメリカ大使公邸の門をくぐった。大使公邸の玄関には、マッカーサーの姿はなく、出迎えたのは、2人の副官だけだった。マッカーサーは、この時、出迎えも見送りもしないと決めていたのである。昭和天皇は、同行したくない大臣などと次の間で別れ、通訳と2人だけで奥の部屋に向かった。

 10時5分過ぎ、レセプションルームで出迎えたマッカーサーは、昭和天皇を部屋の奥へと案内した。米国バージニア州のマッカーサー記念館に、会見時の写真が3枚残されている。

(文責:江渕) 
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